2010年4月、理学部の大学院に進学したけれど・・・
理学部の大学院に進学し、同じ研究室の院生として研究を続けた。アミノ酸に弱い静磁場をかけ、電気的挙動を調べるということをやらせてもらっていた。教授の「上手にすり替わるねえ・・・。」発言は、この頃のことだったと思う。相変わらず、学内ストーカー、監視、嫌がらせは続いていた。
1年目も終わろうとしていたころ、あの東日本大震災が起きた。
私が住んでいた町は、大きな被害はなかった。しかし、家に帰ってテレビに映る映像に、ショックを受けた。繰り返し流れる津波の映像、連日の報道の内容に、何かしなきゃとは思ったが、何もできなかった。
4月に入ったある日曜日、新聞の記事に涙が止まらなくなった。岩手県の沿岸にすむ4歳になる女の子の記事だった。両親と妹を津波に奪われ、おばあさんと暮らすその女の子が、なかなか会えない両親に宛てたお手紙だった。つたない文字と絵を見た途端、涙があふれた。止まらなかった。一日中泣いた。
翌日まぶたが腫れたまま、研究室に向かった。席についても、何も手につかなかった。こんなことしている場合じゃない気がした。あんな大災害があったにもかかわらず、相変わらず学内集団ストーカーは続いていた。大学内でも監視され、付きまとわれ、いわれのない中傷を受ける毎日にも疲れ切っていた。大の大人が、しかも国立大学の中のエリートたちが大勢で、家族と普通に暮らしながら学生している普通のおばさんを追いかけまわし、偽物扱いして、いったい何をやっているのか?こんなに悲惨な大災害があったのに、何をいつまでふざけてるのか?こんな場所に授業料を払うこと自体が、あほらしくなった。
その日、退学を決めた。教授に無理を言って、その月の末に退学となった。学生証は返却する決まりだったが、学務の女性職員にわがままを言って強引に頂戴した。今も持っている。
周囲の冷静さが気になっていた。大学として何か支援の動きがあってもよさそうな気がした。担当教授は、「元気なところが頑張らないといけない。」と言っていた。辞める直前、核化学のY教授と話をする機会があった。福島第一原発の事故については、Y教授も深刻に受け止めていた。「周りの先生たちの平静さがわからない。」と不思議がっていた。
「なぜ、こんなにいつも通りなんだろう?」あの震災について、まるで何事もなかったような大学の雰囲気が、気になった。
盗聴・盗撮されている・・・?
在学中から不思議な事があった。研究室の先輩にあたる女学生とおしゃべりしていると、前の晩、家で子どもたちと交わした会話の内容が話題になることがよくあった。まるで聞いていたかのように。その女学生は、研究室の学生が一斉に誰もいなくなった時に、いつも財布がむき出しになっているカバンの持ち主だった。
盗聴器を疑って色々調べてみたが、見つからなかった。
「もしかしたら、携帯電話かもしれない。」
この頃はすでに街中でも日常的に集団ストーカーされ、様々な妨害を受けていた。その中の一つが、私に向けてスマホを向けてくるというものだった。こちらが全く知らない相手が、なぜか私のことを知っている・・・!?その時は、狭い町だからかとも思ったが、その後行く先々で同じことが起きる。全く知らない不特定多数の人間が、私の顔を知っているのだ。つい半年前にも、いきなり初対面の年配の女性に笑いながら手を振られたこともある。まるで、アイドルに手を振るように・・・。
「マイクとカメラの設定を遠隔で操作する」これができれば、盗聴・盗撮は可能である。
でも、一人や二人じゃない。どこに行っても、大勢の人が私のことを知っているのである。中央線の中で座っている時、真正面に座った男性がまっすぐにスマホをこちらに向けてシャッターを切っていることもあった。私の音声や映像が、なぜか配信・拡散されているのだ。一体だれが?何のために?このことが、偽物扱いと何か関係があるのではないか?
携帯電話やパソコンが、遠隔で操作されている・・・
そもそも、学部の卒業研究の時に、パソコンのデータをいじくられていた。これは後の医学部での修士論文研究の時まで続く。いや、今このブログを入力している最中も起きている。データの改ざん、拡大鏡の倍率操作、あるはずのファイルが隠される、パスワードを勝手に変更されるなど、枚挙にいとまがない。今も日常的に起きている。パスワードは入力したそばから盗まれ、管理者情報の欄には何人もの管理者情報が勝手に入り込み、その中に私のパスワードも表示されているということが起きている。新しくファイルを作れば即座にコピーされ、同じ内容のファイルが2つできる。私が使用していないときには、誰かが私のパソコンでゲームをしている。
携帯電話の設定もいじくられる。当時、小学生と中学生の子どもがいたので、部活動の送迎や弁当作りがある日など、携帯のアラームを目覚まし時計に使っていた。普段より特に早く起きる日に限ってアラームが鳴らないことがよくあった。逆におかしな時間になることもしばしばあった。確認すると、勝手に変更されていた。携帯電話の通知のボリュームもよく変わる。電話がかかってくる予定があるときに限って、着信音が鳴らないように設定される。写真のホルダーには、身に覚えのないファイルがいくつも並んでいる。
よくこの状況で卒業論文を2つも仕上げたなと我ながら感心するが、感心している場合ではない。なぜこんなことが、起きてしまうのか。いったい誰が、私のスマホやパソコンを私物化して勝手に操作しているのか?
今の憲法なら、明らかに犯罪行為である。いったい誰が、何のために?
南三陸町へのボランティア・ツアーに参加
大学院を中退し1月ほどたった頃、震災ボランティアのツアーがあることを知った。主婦業だけの生活に時間を持て余し始めたころだった。被災地のために何もしていないことに罪悪感も感じていた。こんな言い方をしては被災地の方々に申し訳ないのだが、あれだけの災害があった現場に足を運んで、実際にその状況を見てみたかった。他人事でいてはいけない、見ておかなければいけない気もした。ネットから早速申し込んだ。家族にも了承を取った。大したことはできないかもしれないけれど、とりあえず行ってみよう。
ツアーは新宿に夜10時集合で、車中1泊、旅館1泊の2泊3日。スケジュールには、南三陸町での瓦礫の片づけや、津波で汚れた写真を修復するボランティア作業が含まれていた。
私の住む町からまず新宿に出て、集合時間まで夕食を取るなどして時間を潰した。人で混雑した新宿駅周辺を、大きな荷物を抱えての移動はストレスだった。どこにいても常にストーカーが妨害してくるので、なおさらだった。やっと集合時間近くになり、集合場所であるバスのターミナルへ行ってみると真っ暗だった。街灯の下に若い女性が一人いた。「ツアーの方ですか?」と声をかけてみた。同じツアーに参加する女性だった。私より15,6も若い独身女性で、普段はOLとして働きながら、ときどきこのボランティア・ツアーに参加しているということだった。被災地のために何かしたいという思いを、ちゃんと行動で示している。「若いのに、立派だなあ。」と感心した。私なんて、何もしていない・・・。一緒にバスに乗り込み隣に座った。気さくな女性と知り合えたことで、とても安心した。真っ暗なバス停に着いたときは正直「これ、やばいツアーかも?」と思った。消灯になり、すぐ眠りについた。
今は、震災遺構になっている場所を周って・・・
目覚めると、海辺の景色が広がっていた。バスは、海岸線を走っていた。すぐに、バスガイドさんのアナウンスが入った。「間もなく、大川小学校の近くを通ります・・・。」
石巻市立大川小学校・・・。児童と教員合わせて84名の被害がメディアに大きく取り上げられていた。地震発生から津波まで40分ほど。その間の対応によって、明暗が分かれた。特に、小学生が大勢犠牲になったことで、この小学校についてはある程度知っていた。「しっかり見ておこう。」そう、思った。
バスは海岸線を北上、南三陸町防災対策庁舎で停車し、津波の被害を受けた庁舎を見学した。ここもニュース等で何度も取り上げられていたので、頭に入っていた。まだ若い女性職員が、住民へ避難を呼びかけながら、犠牲になった場所。そう記憶している。テレビで見たとおり、赤い鉄骨だけだった。朝は曇っていた空が晴れて、6月の日差しが照り付け始めた。
誰かのために避難を呼びかけ、誰かを助けようとして犠牲になった人たちがいた。一方で、すぐに行動できたのに、逃げ遅れたことで犠牲になった人たちがいた。経験したことのない大地震と大津波。自分だったら、どう行動しただろう。
「みんなそれぞれ、一生懸命だったんだ。」とは思うが、やりきれない・・・。
バスはさらに北上し、志津川町に入った。昼食をどうしたのか、全く覚えていない。海沿いの道路から川沿いに内陸に入っていくと、周囲の景色が変わった。めちゃめちゃだった。ちょっと大きめの病院のような建物の上に船が載っていた。車が転がっていた。家々は壁が抜け、柱が折れ、屋根がなかった。初めて見る景色。「・・・これが、津波の威力なのか・・・。どんなに怖かっただろう・・・。」
昼食後は、がれきを撤去する作業を行った。確か安全の為、安全靴になるものを持参というルールだったと思う。靴を履き替え、作業に入った。土台しかない家もあった。「ここに花壇(の名残り)があるから、こっちが玄関かな?」などと想像しながら、黙々と折れた木の枝や石を運んだ。よく晴れた空、崖の向こうに、穏やかな海が見える高台だった。ここまで津波がきたのか・・・。ひとつでもたくさん片付けなきゃ、そう思わずにいられなかった。
時間になり、少し離れたところにある民家の水道をお借りして長靴などを洗った。自分は、何か少しでもできたのだろうか?バスに乗り込み、ホテルに向かった。
なんで、この人こにいるの?これが、集団ストーカーなのか!?
ホテルについて、バスを降りた。昨夜知り合った女性(Tさんとしよう)と行動を共にした。部屋も一緒だった。ホテルのロビーで、浴衣姿の男性が数人でこちらを窺っていることに気づいた。
「んっ?あの人見たことがある、確か・・・。」
先日退学した大学の事務職員の男性だった。年齢は30代くらい、退学手続きのために行った部署の職員で、非常に奇抜な髪形をしていたため覚えていた。国立大学の公務員としては珍しく、長い髪を後ろで束ねていた。
「・・・?なんでこの人ここにいるんだ?」
気味悪かった。偶然にしては・・・いや、これまでの経緯からして、偶然ではないだろう。そもそも大学内で教職員や学生から監視・ストーカーされていた。まさに集団ストーカー、南三陸町までついてきたのか?当然、スルーした。
その夜も、何か変だった。温泉に入り夕食を取るところまでは、Tさんと一緒だったと思う。部屋も一緒だった。同じ部屋には、ほかにも2,3人の若い女性がいた。自己紹介がてら、おしゃべりが始まった。「んっ?仕組まれている?」その若い女性たちは、いずれもどこかの大学で学生や研究職に就いているという方だった。大学名までは覚えていない。普通のOLという人はTさんだけだった。あまりにも、不自然。そんなことってある?そう思った。私はひと月半ほど前に、大学院を辞めていた。特に興味も持てなかったので、うん、うんと聞くだけだった。お酒の酔いもあって眠ってしまったのか、気が付いたら朝だった。
翌日は、バスで避難所となっている総合スポーツセンターのような場所に移動し、津波で汚れた写真を修復する作業を行った。初めに手順を説明され、その通りにやるだけだった。泥水で汚れ、乱暴に扱うと破けてしまいそうな写真だった。一枚一枚にその家族の歴史が詰まってる大切な写真だった。ここに写っている人はもういないのかもしれないけれど、家族がまだ生きているのなら、きれいに残してあげたい。自分にはそれぐらいしかできないのだから。それだけだった。
ボランティアとしてお役に立てたのかどうなのかわからないまま、作業を終え、再びバスに乗り込んで帰途に就いた。バスが出るときに、仮設の診療所と思われるハウスの中から、白衣を着た人たちが手を振っていた。
新宿に着くのは夜9時ごろの予定だった。食事休憩とトイレ休憩があった。食事は、仙台駅にバスが停車し、駅周辺のお店でタン塩定食を取った。仙台名物のひとつがタン塩だとはその時Tさんから教わった。おいしかった。家族ではない誰かとおしゃべりしながら食事するなんて、つかの間のほっとする時間だった。家族のおみやげに笹団子を購入した。トイレ休憩はまだ明るい時間帯だった。そこで、普通ではない何かが起きた。
トイレを済ませ、Tさんとバスに乗り込んだ時に後方にいる人たちを見てぎょっとした。さっきまで一緒にこのバスに乗っていた人たちではなかった。まるで、建設現場からの帰り道のような恰好をした人たちが、にやにやしながらこちらを見ていた。Tさんも何かを感じとったようだった。
帰りがてら、何人かの人たちを高速バスのバス停で降ろしながらの帰路だったのかもしれないが、ほとんどの人は新宿から一緒に乗ってきたはずである。今後方に座っているのは、一緒に作業したボランティア・ツアー客じゃない。私をすり替えようとしているのか。ツアー丸ごとすり替えられたのか?
幸いなことに、Tさんは、新宿まで一緒だった。ボランティア・ツアーは続けるといっていた。本当にありがとう、一緒にいてくれてとても心強かったです。
新宿駅に着いたのは、夜9時を少し回っていた。自宅のある町まで行く特急には間に合わなかった。自宅に携帯から今日は帰れないという連絡を入れ、簡易宿泊所を探した。歌舞伎町にある簡易宿泊所が見つかったが、場所がわからずに東口の交番で尋ね、そこに泊まった。思ったより快適だった。
翌朝6時ごろのバスで、自宅のある街に戻った。当初は、パートで旅費を稼ぎ、Tさんのように月1回くらいボランティア・ツアーに参加しようかなと考えていた。しかし、やめた。奴ら(集団ストーカー)はどこまでもついてくる。ボランティア・ツアーはこれが最初で最後になった。
これが南三陸町へのボランティア・ツアーで起きたことである。


