そして、偽物(ネコ)扱いが始まった・・・

偽物扱い

学内集団ストーカーが始まった・・・

心機一転、新たな気持ちで大学生活を楽しもうと臨んだ理学部。現役(工学部)時代に学んだ教科もあり懐かしい半面、期末試験をパスできるのかという不安も入り混じった転学部だった。でも、「去年の分まで、最高学府の学問を楽しもう。」そう、思っていた。

しかし、医学部は目と鼻の先、当然影響はあるだろうと覚悟もしていた。そして、それはすぐに現実のこととなった。学生の一部から、再び医学部で起きたような扱いを受けるようになった。まるで、紛い物を見るようないやらしい表情、非難するような態度、小ばかにするような言動を示す学生が出始めた。覚悟はしていたが、残念だった。理解できなかった。現役時代、同じ学科にずっと年上の留学生がいた。いつも一番前で授業を受けるその態度を見て、声をかけることさえできないくらい距離感があった。私はそれほど真面目ではないが、家族もあり、一応受験を突破し入学金も授業料も自腹で払って通っている普通の学生であることには変わりないのに、なぜこの若者(医学部同様)たちはここまで馬鹿にしてくるのだろう。この若者たちに、私の何がわかるのか。疑問だった。

教職員までも・・・

もっと残念だったのは、教授陣や職員の態度だった。授業中に、あからさまに「モグリだ。」という言葉を発した教授もいた。去年、医学部に一般受験で入学し、面接を受けて転学部してきたはずなのに、どこかで話がねじ曲がっていた。面接の席には、確かにそのH教授もいたのだが・・・。また、廊下ですれ違う時常に、にやにやしながら何か言いたげにすれ違う准教授もいた。学生たちと同様、何か紛い物を見るような表情でこちらを窺う教職員たち。そして、学内集団ストーカーと呼ぶべき状況が始まった。私が学内を移動するとき、研究室からでてトイレへ行くとき、授業の為に他学部の建屋に行くときなど、必ず理学部の誰かが付いてくるようになった。学生、事務員の女性、特に気になったのは、O教授だった。その教授は、転学部の時に教務主任をされており、お世話になった方だった。転学部の相談の際、医学部で起きたことについて伝えてあった。しかし、学生たちと同様、次第に私に対し疑いの目を向けているのが分かった。生化学を希望していた私は当初、O教授の研究室を考えていた。しかし、結局他の研究室に決めた理由は、これである。O教授の研究室は大人気だったこともあり、私は一番希望者の少ない研究室に決めた。それからO教授のまさに私に対する「監視」といってもいいような状況が始まった。その研究室は、女子トイレの前だった。なぜわかるのか不明なのだが、私がトイレや移動のために廊下に出ると、必ずと言っていいほどO教授が廊下に出てくるのだった。棟を移動するために1階の外廊下を通るときは、まるで待ち伏せするかのように、そこにある喫煙所でタバコを吸っていた。見ないようにして足早に通り過ぎるようにした。私の入った研究室は、土曜日にも実験の進行状況を発表するセミナーがあった。授業のないその日にも、いた。その教室はO教授の研究室の隣だったが、決まって10時と12時ごろ、私たちが発表している教室の前をうろうろするO教授がいた。トイレの中には、その研究室の女子学生たちが必ずと言っていいほど入ってきた。まるで、監視するかのように・・・。

背後には医学部が・・・

そしてそれに、医学部が関与していることは容易に想像できた。

まだ医学部にいた年か、理学部に転学部したその年の夏のことである。家族でキャンプに行こうと朝早く車に荷物を詰め込み出発したところで、トランクが開けっ放しだったことに気づいて近くのスーパーの駐車場に車を止めた。笑いながらトランクを閉め、さあ出発だ!と乗り込もうとしたとき、まだ開いていないひと気のないスーパーの屋根の下にいる人影を見て、ぎょっとした。医学部で在籍していた学科の女性教授だった。真っ黒いサングラスをかけ、こちらを向いてじっと立っていた。あいさつしたかどうかもわからないまま、急いで車を出発させた。朝7時前だったかと思う。なぜ一人でこんなところに・・・。不気味だった。

これは、理学部に転学部した後の話。門を入り理学部へと続く通路を左折する木立の下に、別の女性教授がやはり真っ黒いサングラスをかけてニコニコ(にやにや)しながら立っていた。なぜこんなところに・・・。やはり、あいさつしたかどうかも覚えていない。いずれも何らかの脅し、無言の圧力だったのだろう。

医学部にいたときには、また別の女性教授から突然こんなことも言われた。「こどもがいるんでしょっ!!」と突然叱られた。何が起きたのかわからず、「???普通に暮らしていますが…」と思ったが、返す言葉がなかった。何かおかしな話になっていることは、わかっていた。

万引き犯扱いも・・・?

そのころ、学内だけでなく学外でもおかしなことは始まっていた。その一つが、「万引き常習者扱い」だった。スーパーに入ると必ず、厳しい表情をした私服警備員とみられる人物がついてきた。最初はわからなかったが、買い物するでもなく、私の周囲をうろうろする人物がいるのだ。私は、今でこそ当たり前になったが、その頃からお買い物バッグを持つようにしていた。そのせいかもしれないが、それだけではない。大学の研究室の中でも、万引き犯にされかねない状況はたびたび起きた。研究室の学生たちが、なぜか皆一斉に消えてしまい、空になった研究室の中で、ある学生のカバンが大きくあけられて財布が丸見えになっていることが、よく起きた。わざとやっているとしか思えない、万引き犯に仕立て上げたいのか?そういうとき、私はここぞとばかりに掃除機をかけるようにした。そして、これと同じことがその後、実家でも起きたのだ。

とにかく、全くの別人にされている ーすり替えー

理学部へと転学部した年の夏、夫が転職し家族4人で暮らすようになった。少し広い戸建ての貸家に移り、小学生の子ども2人とサラリーマンの夫との普通の暮らしだった。経済的にも安定し、子どもの世話を見てくれることで、気分も楽になった。子どもの友達がお泊り会をしに来たり、楽しい時間だった。夫とは、一度離婚していた。しかし、この大学に入学する前年に再婚していた。元通りの家族だった。これからこの土地で家を持ち、普通に暮らしていくつもりだった。卒業後は、大学で「実験室のおばさん」でもやりたいな、ぐらいに考えていた。大それたことは考えていなかった。ただ、子育てや家事といった日常から離れて、思い切り難解な学問に浸る時間が欲しかった。現役時代に理解できなかった量子力学などに、再チャレンジしたかった。お金になるとか、人の役に立つ、など目先の結果ではなく、未達、未開の領域に自由に挑戦することに価値がある。大学はそういう場所だと思っていたし、今もそう思う。

けれど、違った。少なくとも今のこの大学はそうじゃない。私の想像していた大学生活ではない。何かが大きく変わってしまっている。何か想像もできない大きなものによって捻じ曲げられている。そう感じていた。普通じゃない何か、これまでの日常生活からは想像もできない何か、得体のしれない何か・・・。それによって、大学という場所が大きく変容し、私は偽物にされている。それを理解させたのは、研究室の担当教授の無邪気な一言だった。ある朝、実験室でその日の実験の準備をしている私に、開口一番かけられた言葉が、「上手にすり替わるねえ・・・。」だった。実際、無邪気な人だった。この一言で、自分が何をされているのかが分かった。「誰かとすり替えられているのか・・・。」

この時期、大学から帰るとき毎日のようににやにやしながら自転車でついてくる学生がいた。知らない若者だった。途中までは後ろをついてくるのだが、あるT字路で別れた。それが、のちに誰とすり替えられているのかのヒントにもなった。

再度のハラスメント相談も、結果は「火に油を注いだ」だけ・・・

再度、理学部内のハラスメント相談室に相談した。当時の相談室担当の教授は、他学部の方だった。「私のプライバシーに関する情報がめちゃくちゃにされ、別人扱いを受けている。」その説明をした。丁寧に話を聞いてくれた後、「化学科のF教授に相談しましょう。とても信頼されている方だから、きっと改善してくれるでしょう。」F教授は最年長の温厚そうな方だったので、教授陣の信頼も厚いというのは確かだったと思う。正直少し、期待した。でも、なにも変わらなかったというより、火に油を注いだだけだった。H教授とO教授の攻撃は、ますますひどくなったように感じられた。ある時、授業の最中にF教授が唐突に吐き出すように言った言葉を覚えている。

「・・・良かれと思ってやったんだよ!!」

多分これは、私に向けられた言葉だろうと思った。良かれと思って・・・。その後もハラスメント相談室とは2,3回やり取りがあったが、「何をやっても、無駄なんだ」と理解した。

「あなたの将来」って、何のこと?

ある日、何かの授業の後、学務の主査という職員に呼び止められ誰もいない教室に連れていかれた。開口一番、「H教授、O教授と、あなたの将来について、場所を変えて相談しませんか。」「?あなたの将来って何のこと?」そう思った。教授陣に相談しなければならないような大それた将来は考えていなかった。夕飯の支度もある。「そんな暇はありません。」と答えると、「・・・でしょうね。」と口元で笑った。気味の悪さに耐えられず、急いで部屋を出た。その後も、学内集団ストーカーは続いた。

4年生になり、卒業論文研究が始まるとパソコンのデータにも改ざん等が加えられるようになった。当然、予想していたことなので常に3種類くらいのバックアップを取るようにして乗り切った。実験そのものも、非常に困難な実験だった。徹夜でデータを取った。非常に高価な装置を、みんなで計画的に使い回しながらの実験だった。いつでも装置を使えるわけではなかった。私は生きた細胞を対象にしていたので、細胞培養などの生物学的な準備も必要だった。常に妨害を受けた状態での論文発表、提出には満足している。それぞれが困難な実験を一緒に夜遅くまで、または徹夜で頑張った研究室の仲間、そして指導してくださった教授陣に、とても感謝している。卒業論文発表前の数週間は、4年生だけで、別室で発表の練習をした。楽しかった。今思い出しても、涙が出るくらい、いい思い出である。

信じてくれる仲間や教員も、確かにいた

化学科の学生たちも嫌がらせをしてくるのは一部の学生たちだけだった。笑いながら、普通におしゃべりしてくれる学生は何人もいた。授業や試験の情報を教えてくれたり(ちなみに医学部時代、期末試験前の過去問の情報は私には回ってこなかった)、何気ない世間話をしてくれる何人かの学生に救われた。研究室に入ってからも、会えばそれぞれの日常を伝え合った。「この得体のしれない組織の言いなりになっているのは、一部の者だけだ。」そう思えた。

教授陣も、同じだった。

理学部に移動した年の英語の授業。クラスは理学部内の全学科を対象にした小テストの点数で振り分けられたクラスだった。数学科や物理学科の学生などもいる混合クラスだった。そのクラスの中にも、嫌がらせをする学生はいた。担当教員はA先生という女性講師の方だった。弁護士資格取得を目標にアメリカに留学された経験を話してくれた。ある時、一人の学生に対しきつく注意する場面があった。「ちゃんと授業料を払って真面目に勉強する仲間を誹謗中傷するようなことは許さない。」こういった内容の言葉だったと思う。その学生は化学科の1つ上の学年で、悔しそうに下を向いていた。1つ上の学年というのは、昨年医学部にいた仲間と同じ学年である。何が起きているかは想像できた。信じてくれる教職員も確かにいた。それだけで、救われた。

しかし、偽物にされていることに気づいて2005年に医学部に在籍していたときにとった単位を確認していた時、担当だった一般教養科目の教授たちが、A先生も含めみんないなくなっていたことに気づく。確かに、何かの圧力がかかっている・・・。そう感じた。

暗いトンネルの中をあちこちにぶつかりながら手探りで歩く、そんな状況だった。

それでもとにかく、無事に卒業したのだ。

何と言われようが、成績卒業証明書と卒業証書は手にした。

2010(平成22年)年3月、理学部化学科を、卒業。本当に、よく頑張った。

卒業式の後、一人ずつ卒業証書をもらう場面に、O教授はいなかった。

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