再入学した医学部大学院で、起きたこと

おかしな体調不良

2013年4月、医学部の大学院へ再度入学。この間も、生活の現場では集団ストーカーは続いていたが、理学部で断念した修士の学位取得を目指し再び大学へ通うことを決めた。

テーマはイオンチャネル、「細胞膜を流れる電流を計測する」

研究室を決める際に自分は何が知りたいのか、見たいのか考えた。お金もかかる。イオンチャネルについては入学当時から知っていた。医学部保健学科で買わされた「オックスフォード生理学」という涙が出るほど高い教科書に載っていた。理学部時代には、生物学科の授業などでも学んでいた。イオンチャネルを通して細胞膜内外を交通する微少なイオン電流が、生体反応の信号としてはたらく。電気生理学的手法を使ってその微少なイオン電流を計測し、その結果を薬の開発などに利用する。その研究を選んだ。私個人としては、「イオンチャネルを移動する電流を計測してみたい!」それだけだった。

理学部に転学部した時と同様、正直不安だった。ちゃんと実験データをとれるのか、研究内容についていけるのか?そして、再び始まるであろう学内集団ストーカーの攻撃に耐えられるのか・・・。不安だらけの2013年4月が始まった。始まってしまったら、やるしかなかった。

理学部の時と違って、少人数の静かな研究室だった。にぎやかな環境が苦手な私としては、ほっとした。教授陣や学生(みんなお医者さん)の方々も親切で、やっていけると思った。また、同期の中に、同年代の学生がもう2人いた。男性の方はエリートサラリーマンで、女性は学校の先生だった。お二方とも職場の業務に関係する研究室に所属していた。授業やセミナーで一緒になるときには、お喋りしたり、たまに食事に出かけるなど、心強い味方だった。

実験の内容は、生きた細胞を使い細胞膜に細いガラス管で作成した針を当て、イオンチャネルを通って細胞膜を流れるイオン電流を計測し、目的の薬剤を投入し電流の流れ方を比較することで、その薬の効果を確認する、というものだった。理学部の卒論研究と同様、細胞培養の工程があるため、実験のある日は1日仕事だった。理学部での経験がとてもいい訓練になっていた。

そして再び始まった、偽物扱い・・・

しかし予想通り、間もなく学内集団ストーカーは始まった。エリートであるはずの医師の卵たちが理学部のときと同じ様に周囲をうろつき始めた。パソコンを構えて階段の前に陣取り、階段を移動する様子を撮影するかのような学生もいた。全く同じことが、再び始まった。医学部時代には、セミナーが頻繁に開催された。日中は忙しいせいだろうか、夕方から夜9時ぐらいまでのセミナーもよくあった。なぜか、聴衆(医学部の教員や学生)がある時間になると一斉に入れ替わった。場の雰囲気が変わった。気味が悪くなって、セミナーも参加しなくなった。

実験への妨害もあった。生きたラットの神経細胞を取り出して培養し、その細胞を使ってイオン電流を測定する実験だった。午前中にラットの解剖・培養作業を済ませ、午後2時くらいから測定に入る、というスケジュールだった。「生きのいい細胞をたくさん残せるか」が実験データを取るために一番大事なことだった。死んだ細胞では、チャネルは機能しない。細胞培養の器具や装置の使い方は、理学部時代に教わっていたため慣れていた。初めはうまくいっていた。測定作業にも次第に慣れて、理想の電流波形もとれるようになってきた。確か寒くなってきた時期のことだったと思う。インキュベーターから取り出したシャーレの中の細胞が、いつもと違う。しぼんでいた。インキュベータを開けた瞬間に、かすかに塩素の匂いがした。「やられた。」と思った。案の定、細胞は死んでいた。イオン電流測定はできなかった。こんなことが何度か続いた。そしてそれは、ある学生(お医者さん)が研究室に来る曜日に起きた。基本的に、大学院にいるお医者さんたちは働きながら博士号を取る研究論文を書くため、勤務の都合研究室に来る日は決まっていた。データが取れないと論文を書けない。教授にそのいきさつを伝えたが、全く取り合ってもらえなかった。「身内が大事なんだな。」その時は、あきらめた。

ある時、細胞を確認するために培養中のインキュベーターを見に行った。その日は、例の学生が研究室にいる日だったからだ。すると、まさにその学生がインキュベーターを開けようとしていた。手には何かを持っていた。私を見ると、そのまま何もせず何も言わず、そそくさと出ていった。シャーレのセット方法も、少し変えていた。

それから間もなくすると、また以前のように細胞培養できるようになった。ハードな実験だったが、着実にデータの量は増え修士論文の輪郭も見えてきた。2年目に入ってすぐ、最終学年の学生を対象にした健康診断があった。気が進まなかったが、保健学科の建屋に行き、受付で自分の名前を探した。同じ名前が2行あった。漢字も生年月日も同じだった。「これか・・・。」同じ名前・生年月日の学生が2人いることになっていた。やっぱり、誰かが私に成りすまし、私が偽物にされている。しかしこれで、その証拠を見つけた気分だった。

私が2人いることになっていて、私は偽物にされ、誰かが私に成りすましていた。

毎日夕方5時になると突然始まる、激しい咳込み・・・

集団ストーカーは続いていたが、実験やデータ整理に夢中になることで気を紛らわせていた。理学部での経験がいろいろな意味で役に立っていた。毎日9時前に席に着き、5時半に帰るというペースを守って、その中でそれなりに成果を積み重ねることができていた。気になることはあった。担当教授は毎日午後4時前になると部屋に戻ってきて学生の居室と教授室の間の扉を閉め、それきり出てこなかった。もともと愛想のいい方ではなかったが、例にもれず、偽物扱いしているのだろうと受け止めていた。理学部と異なり、各研究室に庶務の女性がいた。年齢が近いこともあり、入学当初は気さくにおしゃべりしたりできていたが、やはりいつしか態度が豹変していった。偽物扱いには慣れていたし、修士論文を納め学位を取ったらもう、終わりにしようと決めていた。研究自体、そんなこと気にしている余裕がないくらいにハードだった。

それは突然始まった。鎖骨の上あたりに鋭い刺激が入り、激しく咳込みたくなった。とても抑えきれず、激しく咳き込んだ。夕方、実験を終え居室でデータ整理をしている時、毎日5時ちょうどに起きる、激しい咳込み。咳自体はせいぜい30秒くらいなのだが、喉の炎症や誤嚥など何の兆候もないのに突然どうやっても止められない激しい咳込みが始まる。30秒ほど過ぎると咳は治まり、発熱などの症状もない。初めは何か催咳性の気体かとも思ったが、部屋は静まり返っていて、咳込んでいるのは私だけ。ただその時いつも、近くに座っている講師の先生が机の下でスマホをいじっていた。

「電磁波か・・・?」状況からして、それしか考えられなかった。でも、確かめようがなかった。

その後も続く、数々のおかしな体調不良

しばらく続いたその「夕方5時の、激しい咳込み」も、数週間で治まった。他に何の症状もなかった。しかし、これ以前から「不思議だな」と思うような体調不良はいくつかあった。理学部時代、授業中に始まる止まらない咳込みがあった。もともと、幼い頃から風邪をひくたびに嘔吐するほど激しく咳込む子どもだったので、気管支が弱いのかなと思っていた。しかし以後も、パートの面接時や静かな場所など咳込みたくない場面でそれは起きた。緊張の為なのかと思っていた。

また、家族で外食した後、帰宅後に必ず腹を下した。特にパスタや中華などで起きたので、「小麦アレルギー」になったのかとも思ったが、パンやうどんでは起きないし、自宅で食べるときは起きなかった。「メニューを選ぶ小麦アレルギー?変だな・・・。」と思っていた。しかし、それ以外に続く症状は何もないのだ。

また、不眠症も始まった。集団ストーカーに付きまとわれる生活が原因だろうと思ったし、寝付けない、明け方早くに起きてしまうということは加齢に伴って始まることなので仕方がない、そう思っていた。しかし、それだけではなかった。ぴったり1時間ごとに起きる、毎晩ぴたりと決まった時間に起きるといったことが始まった。まるで、タイマーでセットされているように・・・。

夜中の2時45分に目が覚める、そんなことが続いていた時、私が目を覚ますと同時に家の外で車が発射する音が聞こえていた。見ると、白い軽自動車が急発進していくのが見えた。初めは、新聞配達の車かなと思っていたが、新聞配達員はバイクで5時ごろに来るのだった。2時45分に目が覚めることとあの急発進する白い軽自動車、何か関係があるのでは・・・。気になっていた。

またのちに離婚し、東京で独り暮らしをしていた頃のことだ。毎週日曜日の午後2時半から3時ごろになると、必ず腹を下した。当時、平日は保育園に勤務していた。毎週日曜日のこの時間は、1週間分の買い物をするために自転車で少し遠くのデパートまで買い物に行くのが習慣だった。咳と同様、何の兆候もなく突然始まる下痢。デパートに着くなりトイレに駆け込むこともしばしばだった。まるで、タイマーでセットされているように・・・。その時も、それ以外の症状は何もなかった。

この保育園に勤め始めたのは、2018年秋、実家を出て東京で一人暮らしを始めたからだった。勤務が始まるとすぐに、インフルエンザ症状の呼吸器感染症と思われる体調不良が始まった。明け方まで続く激しい咳で眠れない日が続いた。新米保育士は、園児から病気をもらうこともあると聞いていたので、仕方がないと思っていた。発熱もあったため、休暇をもらって近くの病院に行き検査をするも、「インフルエンザは陰性」だった。2019年新型コロナ・パンデミックが始まるちょうど1年前のことである。夜通し続く咳はひと月で治まったが、この後も春まで体調不良は続き、発熱を繰り返した。しかし何度検査しても、「インフルエンザは陰性」だった。この保育園に勤務する直前、まさに前日に、近くの産婦人科でインフルエンザ予防接種を済ませていた。しばらくして、別の症状でこの医院を訪ねてみると、廃院したのかすでに無かった。ちなみに、この保育園から給与振込先として指示されて口座開設したのは、「三菱UFJ銀行」だった。すでに解約済みであるが。

とにかく無事卒業、目的は、果たせた、やり切った・・・のだが

2015年3月、予想していた通り困難な状況ではあったが、無事に卒業となった。修士論文を書き始めてからも、理学部時代と同様に遠隔で論文やデータを改ざんされているようだったが、慣れていたので特に問題なく書き終えた。論文発表は、マイクの電源を入れ忘れやり直すというハプニングはあったが、目標の修士の学位を取得した。指導教員の皆さんには感謝している。と言いたいのだがしかし、卒業式の当日にも、偽装工作が行われていた。

一緒に卒業した同級生と指導教員で撮影した集合写真の中に、私を指導してくれた先生3人の姿はなかった。卒業式の後、謝恩会のような場が設けられていたが、そこにも、指導教授たちの姿はなかった。おそらくは私を偽物に仕立て上げるためだろう。キツネにつままれたような気分で、さっさと帰宅した。感動に浸る余韻も、先生方にゆっくり感謝を伝える時間も与えられなかった。思い出すたびに、残念なことである。

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